CELLO SUITES 1. 2. 3
バッハ、サキソフォン、スペースの三角関係に強く惹かれた清水のバッハシリーズはここから始まった。サキソフォンの音と言うより、その場所の響きを利用し、空間自体を楽器として鳴らすという清水の新たな試みとして、宇都宮の大谷石切場の地下巨大空間や、倉庫を改造したコンシピオスタジオ等で録音が行われた。
Fascinated by the triangular relationship between Bach, saxophone and space, Shimizu embarked on his explorations of the Bach Cello Suites with this album. Shimizu’s concept of using not only the saxophone, but the reverberation of the space as an instrument led him to use a huge underground quarry in Oya and the rebuilt storehouse that hosts the Consipio Studio as recording locations.
なぜバッハか
まずこのプロジェクトは、「なぜバッハか」というより、「なぜバッハか」ということ自体を考えることから始まったと思います。2年前くらいからですが、突然このバッハのことが気になりだしました。それはバッハの旋律が頭に浮かんでくるという現象ではなく、たぶんバッハという単語に纏わる様々なニュアンスが無意識の厚い袋を少しだけ破ってフワフワと意識の領海を漂っていたという感じでしょう。それで、なんでこんな所に漂ってるの?と思い、ちょっと集中して考えてみたわけです。人間は本能が壊れた動物だといいますが、全くそのとおりで、食べるという行為でさえも、食べる=生、とはいかず、食べる-幻想-生、という関係で成り立っていて気をつけないと太っちゃうわけです。(べつに太ってもいいけど)
このように現実の世界はすべての事柄において幻想を媒介しているので時折ヘンテコで面白い現象が出現します。いや面白いですホントに。(いい意味で)さて僕もこの幻想を都合よく解釈して楽しく暮らしているのですが、ある日ふと、バッハ-サキソフォン-時間と距離、という関係が思い浮かび、ではこれをなんとか実現させたいと思いました。
ある批評家などは、「一般的にバッハのイメージは崇高な音楽を創る偉大な作曲家で、ブルジョアのお嬢さんが聴く音楽だという先入観があるが、実は彼の活躍した時代に於いて彼の音楽は世俗的であった」というのですが、僕としてはこの「一般的にバッハのイメージは崇高な音楽を創る偉大な作曲家で、ブルジョアのお嬢さんが聴く音楽だ」というのが笑っちゃうほど面白いと思うのです。バッハが現在世俗的であったらちっとも面白くありません。しつこいようですが「一般的にバッハのイメージは崇高な音楽を創る偉大な作曲家で、ブルジョアのお嬢さんが聴く音楽だ」という音楽をテナーサキソフォンで演奏したら更にグッとくるんではないかと。そしてパロディ、冗談、オチャラケ、また懐疑的な態度でのアプローチではなく、厳格に謙虚な態度で取り組むことにより、バッハ-サキソフォン-時間と距離、という関係がはっきりと浮かび上がってくるのではないかと思うのです。
神なき時代のバッハ
J.G.バラードに「音を取りのける男(The Sound-Sweep)」という短編小説がある(ちくま文庫『ザ・ベスト・オブ・バラード』所収)。常人には聴こえない音を聴き取る能力を持った「音響掃除人」と、前世紀の遺物的な老残のプリマドンナを主人公にした異色作だが、秀逸なのは「音の残滓」という発想・設定だ。
たとえばパーティー会場にはさまざまなゴシップやグラスのふれあう音が残され、ロマネスクの教会の壁面には何世紀にもわたる聖歌隊の合唱と鐘の音がこびりついている。「音響清掃人」はそれらの場所に赴き、積み重なるに任せるべき美しい音とエントロピーとも呼ぶべき雑音とを峻別して、不要なノイズを、練達の庭師が植木を刈り込むように注意深く「掃除」する。清水靖晃の『Cello Suites 1.2.3』は、この作品をただちに連想させる。
といっても、清水はここで単純な「掃除」をしているわけではない。綿密な楽曲解釈と大胆な録音場所の選択とにより、時間と宗教性が堆積したバッハという名の巨樹を洗いなおし、いったん歴史を無化した上で新たな枝葉を茂らせようと試みているのである。
J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲』は、「チェリストにとっての旧約聖書」と呼ばれる名曲中の名曲だ。複数の舞曲を組み合わせた組曲全6番からなり、1720年ごろに作曲したと見られる。バッハの死後、長いあいだ埋もれていたが、20世紀最大の巨匠、パブロ・カザルスが19世紀末に「発見」して以来、フルニエ、シュタルケル、トルトゥリエ、ビルスマ、マイスキー、ヨーヨー・マ、堤剛、ロストロポーヴィチら一線級のチェロ奏者が次々に演奏・録音を行っている。他にリコーダーによる録音や、ジャズ・ギターによるアプローチ(オーネット・コールマン&プライム・タイム『トーン・ダイアリング』)などがあるにはあるが、清水盤はサキソフォン(テナー)による史上初の録音である。
その『無伴奏チェロ組曲』1番から3番を、清水はそれぞれ、倉庫を改造したスタジオのロビー(1番)、大谷石の地下採石場(2番)、建造されて間もない巨大なコンサート・ホール(3番)の3カ所で録音した。3者に共通するのは、音楽にかかわる歴史性の欠如と並外れて高い残響度である。これらの特殊な空間における演奏・録音は、『無伴奏チェロ組曲』のみならずバッハ作品すべての演奏・録音史にあって、きわめて異例な事件であるといわねばならない。
バッハの曲想をひとことで述べるのはもとより不可能だが、『無伴奏チェロ組曲』の最大の特徴は、基本的に単旋律の楽器であるチェロに、ポリフォニックなハーモニーを仮想的に生じさせるところにある。そのためにバッハが採用した戦略は、分散和音を用いて、実際には奏されていない音を暗示するというものだった。語義矛盾とさえいえる「単旋律によるポリフォニー」は聴き手の脳の内部にのみ存在するというわけだが、清水はそれを、演奏空間全体を楽器と化す、というコロンブスの卵的な方法で現実世界に拡大した。よく鳴る空間そのものをバッハの分散和音で満たしたのである。
残響は不協和音や音の濁りを生じさせるおそれがあるが、清水と録音スタッフの計算は実に行き届いている。フェルマータは、ときに前音の響きを打ち切るべく長く、ときに次音とのハーモニーを利用すべく短い。歴史性に限らず個々の楽音においても、一方で夾雑物を取るべく「掃除」をしながら、他方でカオスの魅力をふんだんに発揮させているのである。「崇高でありながら俗で下世話でもあるバッハ」を表現したかったと清水はいう。その思いは、大谷石の地下採石場で行った2番の録音に最も端的に現れている。
採石場は地下数十メートルの深さにあり、古代の神殿を想わせる圧倒的に巨大な空間だ。地上との温度差は10度からときに20度以上もあり、真夏だったがスタッフは冬の身支度で録音に臨んだ。温度差のために空気中の水分が結露し、天井から間断なく落ちる水滴が床全体を濡らしている。携帯用カイロを懐に忍ばせ(!)、ときおり濃縮酸素を補給しながら(!!)、清水はそこで心地よさそうにサックスを吹き鳴らした。耳をこらすと、しとしとと落ちる水音をはじめ、さまざまな微細な音が満ちていることに気がつくだろう。残響と環境音の存在を逆手に取ったこの演奏・録音には、教会のオルガン席に女性を連れ込んだために当局に喚問され、教会音楽と世俗音楽の両方を手がけたバッハも脱帽するのではないだろうか。
教会でも伝統あるホールでもない空間で録音されたこのバッハは、紋切型の宗教史と音楽史から解放されたがゆえに類稀なのびやかさをも獲得している。2番以外でも、たとえば1番の「プレリュード」の軽快な美しさと「メニュエット」の遅さ、そしてファンキーともいうべき「ジーグ」のスピード、あるいは3番の「クーラント」終曲部の長い和音。普遍的であり同時に現代的なバッハがそこにある。ファイン・アートとポップ・アートの狭間に立ち、そのいずれでもある演奏といったらよいだろうか。
バッハはチェロの他に、フルートおよびヴァイオリンのために無伴奏の独奏曲を書いている。歴史に「もし」を求めても意味がないだろうが、サックス、とりわけテナー・サックスの音色のチェロとの共通点(および相違点)を見ると、「もしもバッハの時代にサキソフォンが存在していたら」という想像を禁じることができない。その想像を建設的に具体化したのが、今回の試みだといえるだろう。
そして清水はこの試みにおいて、歴史の残滓を注意深く取捨選択し、これまでには存在しなかったバッハを創出した。その意味で、清水の仕事の半分はバラードの音響清掃人に比されてもおかしくはない。だが、より重要なのは仕事のもう半分の方だろう。現代という時代にふさわしい付け加えるべきものを加えて、清水は『無伴奏チェロ組曲』に新たな時間性(無時間性?)を与え、聖性の中に猥雑さをカオティックに織り込んだのだ。「神なき時代」の新しいバッハの誕生である。
(小崎 哲哉)
“異様なレコーディング。西洋人の耳にとってもっとも際だって聴こえるのはメヌエットI, II のテンポである。私達は、ダンスのペースで奏される__カザルスのミリタリー・ドラム調のアタック(タン-タン-タン-タン-タタタン!)のような__メヌエットに慣れている。だが、清水のメヌエットは、かつて聴いたこともない、しかし、スローモーションで動く見慣れたシーンの様に、響く。極めて印象的だ”
(映画監督 クリス・マーカー:「スウィート 1」へのコメント)
“清水靖晃氏は、本来的に旋律的でありながらその旋律は漸進的に拡散するかのようにとらえ難く進行するというJSBの、事物の二元性を瓦解してしまうような特質を踏まえ、肉感的で知性的、主観的で客観的、眩惑的で覚醒的、フォーマルでお行儀が悪い、といった「二元論の彼岸」とでもいうべき態度で見事にそれに応えている”
(上野 耕路)
“京都・高台寺コンサート。時が止まり葉一枚動かぬ無風のその夜、演奏する清水靖晃が目に見えぬ風となり、流れ、疾走するのを確かに見た。そしてその『風』に乗って、僕は遠く幻想世昇に遊んだ”
(アニメーション映画監督 りんたろう)
“いまは遠くからお仕事を拝見しておりますが、己の道を通していこうとする姿はすばらしい。他人が通らない茨の途を開拓していくその姿は自分の姿とも重なります。つらいこともあるでしょうが、やりがいもあ
るでしょう。大漁を祈っております。そのうちまた一緒にやろうよ”
(北島 三郎)
“彼の力は木管楽器の演奏にとどまらない。その旺盛なラテン的好奇心はあらゆるジャンルへと交錯し、交流し続けていたため、今現在彼が何処にいるのかさえ定かではない時もあった。才能とはそういうものだ。だがそのようなはじけた時代を通り抜けた今、彼はついに自己の「寂体」ともいうべき精神の深みの中から、最も彼らしい豊かな音楽を奏でているではないか。
清水靖晃は何処にでもなく、今此処にいる”
(細野 晴臣)
“清水靖晃のバッハは、古典音楽への気負った挑戦でもなく、衒った実験でもない。ただ目の前に美しいバッハの音楽があるということだけを教えてくれる。‥‥現代の映画に絶望している人、現代の文学や音楽
に絶望した人たちに、必聴の音楽である”
(映画監督 柳町 光男)
“これは、バッハじゃないね、『清水靖晃』だよ。彼は、バッハの神性を消化し、その他を排泄しちゃった。同時に、自分を排泄し、神性を同化させちゃった。だから、清水靖晃じやないね、これは、『バッハ』だよ。音響の上で最悪の高台寺コンサートを最高のものにしたのは、彼だ。その時、彼は音楽家ではなく、宗教家だった。『音楽』を演奏したのではなく、『祈り』を捧げたのだから”
(高台寺副執事 寺前浄因)
“その響きは、シンプルで力強く、何より、生の人間の「呼吸」を感じさせる。周囲の空気を振動させ、人間の鼓動と共鳴し、やがて大地の息吹と重なりあっていく‥‥、それが清水靖晃のバッハだ”
(NHKドラマ番組 ディレクター 柴田 岳志)
“靖晃さんのバッハが鳴っている空間にいると、音が身体の細胞にどんどんしみ込んでくるんです。そして一枚一枚、衣をはがされていくような感じ、倍音の危険な誘惑でしょうか。現代のサロメはきっとこれを伴奏に踊ると思う”
( TOKYO FM 田中 美登里)
“レストレスに「何か」を探し続けていた僕が、ある日突然、この響きに出会った時、その「何か」が少し分かった気がした。それは、不安な心を包み込むやさしさがある。街の雑踏の中、両手で耳を押さえると聴こえてくる低い響き・・・・・”
(ファッション・デザイナー 山下 隆生 / beauty:beast)
“伝統を守りつつも21世紀の頭脳を持つ日本人につよく魅かれる。清水靖晃は世界的音楽遺産に養分を求め、時代を超えた空間に開花させた”
(ピエール・バルー)
Why Bach?
Why Bach? This project began not with an answer to the question but the query itself. About two years ago I suddenly became preoccupied with Bach. It was not a matter of his melodies popping into my mind—a small tear in my unconsciousness set the myriad of nuances surrounding the word “Bach” adrift on the sea of consciousness. Why was this here? … I just concentrated.
People are said to be animals with damaged instincts. Take eating behavior: it is not the simple formula eating=life, the scheme is a complicated interrelationship of eating/illusion/life, and without care, you get fat. (Nothing against fat.) All things in the real world bear illusion, and occasionally strange, or interesting phenomena emerge. One day the interrelationship Bach/saxophone/time and distance flashed into my mind. And I wanted to give it form.
In the words of one Japanese critic, “The common image of Bach is the great composer of sacred music that bourgeois ladies listen to.” Despite this preconception, in the context of the era in which Bach was active, his music was mundane. To me, “Bach as the great composer of sacred music” is laughably funny. There is absolutely nothing funny, however, in Bach being mundane today. At the risk of seeming importune, would not an interpretation of Bach as “the great composer of sacred music that bourgeois ladies listen to” for tenor saxophone be even more jolting? There was no parody, jest, prank, or skepticism in my approach. Conversely, I believe that tackling it with a stern and humble attitude allowed the interrelationship of Bach/saxophone/time and distance to emerge distinctly. (translated by Pamela Miki)
The Godless Age Bach
J.G. Ballard’s short story “The Sound-Sweep” is based on the remarkable concept of “sound dross”—a reception hall which retains echoes of years of sundry gossip and the tinging of crystal glasses, for instance, or a Romanesque church with centuries of choir singing and the pealing of bells caked to the walls. The story’s hero, a “sound-sweep,” has the ability to pick up sounds inaudible to the average person. His work entails distinguishing the beautiful sounds from mere accumulated “static,” and to carefully “clean out” the unnecessary noise. A clear parallel can be drawn between this and Yasuaki Shimizu’s Cello Suites 1.2.3.
Shimizu does not, however, merely “clean.” With his meticulous interpretation of composition and daring selection of recording spaces, he washes Bach free of the deposits of time and religious context, and having done away with history, ventures to interpret it anew.
Johann Sebastian Bach’s Suites for Unaccompanied Cello are regarded as the “Old Testament’ of the cello repertoire; they are among the greatest of great music. The complete set of six suites is believed to have been composed around 1720, compiled from a number of dance pieces. The suites fell into obscurity after Bach’s death until they were “discovered” in the late 1800s by Pablo Casals. They have since been repeatedly interpreted and recorded by the entire line of major cellists, including Fournier, Starker, Tortelier, Bylsma, Maisky, Yo Yo Ma, Tsutsumi and Rostropovich. Renditions have been recorded on recorder, and on jazz guitar (Ornette Coleman and Prime Time’s Tone Dialing). Shimizu’s is the first recorded tenor saxophone interpretation.
Shimizu chose three distinctly different spaces to record in: the lobby of a converted warehouse for Suite 1, an underground stone quarry for Suite 2, and a huge, newly constructed concert hall for Suite 3. The absence of any historical connection to music and an extraordinarily high degree of reverberation were common to all three locations. Use of such distinctive space is unique not only among recorded interpretations of Bach’s Cello Suites, but among recorded renditions of any of Bach’s works; this is an altogether exceptional event.
Although the concepts behind Bach’s compositions defy easy categorization, the defining characteristic of the Cello Suites is what might be called “virtual” polyphonic harmony achieved with a basically monophonic instrument, the cello. To accomplish this, Bach makes use of broken chords, resulting in the audible suggestion of tones not in fact sounded. The Cello Suites offer the seemingly contradictory experience of polyphony in a single-track melody (actually monophony); the missing notes are imagined by the listener. Shimizu transforms the entire performance space into a musical instrument and enhances reality in a “chicken or egg” style; the resonating space fills the gaps in Bach’s broken chords.
One might fear an assault of echoing dissonant sound, but Shimizu and his recording staff are exacting in their calculations. When resonance from one sound should be broken off before the next, rests are long, and when a sound is to harmonize with the next, rests are short. Historically unbound, each individual tone embodies, on one hand, impurities that must be swept out, and on the other, an alluring chaos. Shimizu has spoken of wanting to express “a Bach that is both sublime and profane.” He succeeds perhaps best in his rendition of Suite 2, recorded in the underground stone quarry.
The quarry, some ten meters below ground, is an overwhelmingly cavernous space, reminiscent of an ancient temple. The temperatures above and below ground differed as much as twenty degrees Centigrade. In midsummer, the staff attended recordings dressed for winter. The extreme difference in temperature created condensation, and water droplets that fell incessantly from the ceiling drenched the entire floor. With a pocket body warmer tucked into his jacket, and invigorated by an occasional toke of supplementary oxygen, Shimizu seemed to be feeling fine as he whaled on his saxophone.
If you listen carefully you can hear the sound of water gently falling and gradually become aware that the music is replete with a myriad of subtle sounds. Even Bach—whose labors also touched on both the sacred and the profane (the authorities were once summoned to the church when he escorted a woman to the organ seat)—would surely tip his hat to Shimizu’s backhanded interpretation adopting echo and environmental sound.
When recorded outside of churches or established halls, freed from the conventions of religious and musical history, Bach takes on a rare kind of ease. Special mention should also be made of the ethereal quality of the Prelude juxtaposed with the slow Menuets, followed by the funky pace of the Gigue in Suite 1, and the extended chord in the finale of the Courante in Suite 3. Here is the omnipresent and, at the same time, contemporary Bach. Balanced in the interstice between fine art and pop art, Shimizu’s interpretation is a tribute to both.
Bach of course not only composed for unaccompanied cello, but also wrote pieces for solo flute and violin. To ask “what if” of history may be sheer fancy, but when we look at the commonality (or disparity) in timbre between cello and saxophone, particularly tenor saxophone, it is tempting to imagine what Bach might have composed for tenor saxophone had the instrument existed in his day. This recording does just that.
Shimizu scrutinizes the residue of history to create a Bach whom we have never known. In part, he functions as a sound sweep. His greater contribution, however, is in adding the strains of our age, giving the Cello Suites a timelessness and creating a chaotic weave of vulgarity and sanctity. A Bach for the godless age is born.
— Tetsuya Ozaki (translated by Pamela Miki)
“Extraordinary recording. The most striking for Western ear is the tempo of the two menuets. We are so accustomed to the usual dancing pace, close to a military drumlike attack with Casals: “Tang- tang tang -tang tatatang!” that suddenly it sounds like something you never heard before, like a familiar scene running in slow motion. Very impressive.”
— Chris Marker, film director
“Shimizu takes a thoroughly modern approach to the melodic structure. He handles the formal aspects of this composition admirably, while also incorporating a dualistic approach to their interpretation. He combines the intellectual with the carnal, the subjective with the objective, the dazzling with the stimulating, the formal with the profane. There is a true measure of equilibrium in his approach, which any true interpretation of Bach requires. This is at the core of Bach’s eternal appeal.”
— Koji Ueno, composer
“Once you hear it, you are taken, and there is no going back.”
— Goro Namerikawa, butoh dancer
“The feeling is that of having one’s true nature brought up to the threshold of harmonic danger.”
— Midori Tanaka, Tokyo FM
“The music went straight to the core of our cells when those solemn tones rose up from the pitch-dark interior, moving out over the illuminated autumn colors of the temple precincts. The melody slowly erased all our unnecessary trappings, bringing us to a state of being at one with the wind. Wrapped into our warm clothing, we were caught body and soul by the force of the music, and drawn slowly into another realm.”
— Rintaro, film animation director
“Shimizu has taken a thorny path that he found for himself, and broken entirely new ground.”
— Saburo Kitajima, enka singer
” His music makes the air vibrate and the heart beat differently, as if one had started breathing in time with the universe.”
— Takeshi Shibata, director, NHK TV
“His talent goes beyond virtuosity: his Latin-like desire and ability to embrace many different musical styles have led him today to a position beyond definition. That is what true talent is all about. In these heady times I believe he has reached a kind of satori.”
— Haruomi Hosono, musician
“Shimizu’s Bach is neither an onslaught on tradition nor a banal experiment. It is simply Bach in all his beauty. What is incredible about it is its outright modern quality; this sets it apart from the orthodox renditions. Shimizu’s Bach is sympathetic. Speaking in cinematic terms, I would compare it with the warmth that exudes from Jean Renoir’s humanistic vision of the world. For those who feel forsaken by modern film, contemporary culture, and music, all I can say is, listen to this.”
— Mitsuo Yanagimachi, film director
プロデューサー:清水 靖晃、内田 英樹
作曲:J. S. バッハ
清水 靖晃: テナーサキソフォン
第2番 メヌエット:
横山 博、渋沢 吉興、中川 紗弥香、高取 美沙、山中 夏子、石田 智子、佐藤 未奈子、菊地 明日香:アルトサキソフォン
鈴木 ハルエ、篠澤 勇樹、杉本 加絵、三浦 悌二、山本 安則:テナーサキソフォン
雀 玲子、柿沼 康夫:バリトンサキソフォン
レコーディング / ミキシング: 福田 政賢
録音場所:
第1番: コンシピオスタジオ(東京)
第2番: 大谷資料館(栃木県宇都宮市)
第3番: 那須野が原ハーモニーホール(栃木県大田原市)
Produced by Yasuaki Shimizu, Eiki Uchida
Composed by J.S. Bach
Yasuaki Shimizu: tenor saxophone
Suite 2 “Menuet I, II”:
Hiroshi Yokoyama, Yoshioki Shibusawa, Sayaka Nakagawa, Misa Takatori,
Natsuko Yamanaka, Tomoko Ishida, Minako Sato, Asuka Kikuchi: alto saxophone
Harue Suzuki, Yuki Shinozawa, Kae Sugimoto, Teiji Miura, Yasunori Yamamoto: tenor saxophone
Reiko Sai, Yasuo Kakinuma: baritone saxophone
Recorded/mixed by Masataka Fukuda at:
Suite 1: Consipio Studio (Tokyo)
Suite 2: Oya Stone Quarry (Utsunomiya)
Suite 3: Harmony Hall (Otawara)