CELLO SUITES
清水のテナーサキソフォンによるバッハ「無伴奏チェロ組曲」を2枚組で完全セット化。6ヶ所の異なる場所の残響を利用してレコーディングされた6つの楽章がDVDオーディオならではの技術によって、鮮明、立体的に再現。
アーティスト、サイモン・ジェームスによる36枚のフォトグラフを収録。
音に呑まれた頭――『チェロ・スウィーツ』の快楽
J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲』をテナーサキソフォンで全曲演奏・録音する――そんな破天荒な試みを清水靖晃が始めたのは、1990年代半ばのことだった。最初のアルバム『チェロ・スウィーツ1.2.3』は96年に発表され、99年にリリースされた『チェロ・スウィーツ4.5.6』でシリーズは完結する。パブロ・カザルス以降、名手と言われるチェリストはひとり残らずこの曲を演奏・録音しているが、チェロ以外の楽器によるものとして、清水盤はバッハ演奏史に刻まれる傑作である。私見を言えば、既存のリコーダーやギターによる『無伴奏チェロ組曲』は、ちゃらちゃらしていてお話にならない。
一部多重録音を用いた箇所はあるが、原則的に清水は、ほぼ全曲をサックス1本で吹いている。バッハの時代にサキソフォンは存在しなかったが、仕上がりを聞くと、『チェロ組曲』ではなく『サキソフォン組曲』であったかのような錯覚さえ覚える。繊細さと大胆さが同居し、深く、濃く、格調高い。樽にじっくりと寝かせた、よい年につくられた赤ワインのようだ。
『チェロ・スウィーツ1.2.3』のライナーノーツに書いたことを繰り返せば、「『無伴奏チェロ組曲』の最大の特徴は、基本的に単旋律の楽器であるチェロに、ポリフォニックなハーモニーを仮想的に生じさせるところにある。そのためにバッハが採用した戦略は、分散和音を用いて、実際には奏されていない音を暗示するというものだった。語義矛盾とさえいえる「単旋律によるポリフォニー」は聴き手の脳の内部にのみ存在するというわけだが、清水はそれを、演奏空間全体を楽器と化す、というコロンブスの卵的な方法で現実世界に拡大した。よく鳴る空間そのものをバッハの分散和音で満たしたのである」。
このように書くと、「バッハ=聴き手の想像力に楽曲の完成を委ねた現代的で実験的な作曲」に対して、「清水=聴き手の想像力を許さない反動的で抑圧的な演奏」と取られるかもしれないが、聴けばおわかりの通りそうではない。大谷石の地下採石場やイタリアの貴族のヴィラなど、「よく鳴る空間」で細心の注意をもって録られた音は、結露して天井から滴る水音や、外壁を通して入り込む生活音などのノイズをわずかに含み込み、一方で通常の音楽とは一線も二線も画して、圧倒的に「よく鳴」っている。ここまで鳴らされると、聴き手の想像力は音が満たされた空間の巨大さに応じて、自らふくらまざるを得ない。
再び酒のたとえを用いれば、バッハがウィンストン・チャーチル、清水が吉田健一なのではないか。吉田健一が宰相・吉田茂の息子であり、英文学の泰斗であることと、チャーチルが元英国首相であることは、とりあえずここでは関係ない。チャーチルの酒の飲み方と、吉田の随筆、というより随筆の体を借りたフィクション「酒宴」(『酒に呑まれた頭』所収)とを比べてみたいのだ。
チャーチルはジンだけでつくられたドライマティーニを、ベルモットの瓶を見ながら味わったという(一説によれば執事に耳許で「ベルモット」とささやかせたとも)。バッハのごとく、ベルモットの味と香りの記憶を脳内によみがえらせ、想像力によって現実のジンと合成する。実際にはありえないほどドライな、しかしぎりぎりのところでジンそのものにはならない究極のドライマティーニを、ヴァーチュアルにつくりだすのである。ミニマルでストイックな、ある意味でチャーチルのイメージに似合わない飲み方だと思う。
対する吉田健一は豪快である。「酒宴」の書き手は、銀座裏の「よし田」で午前1時まで菊正を飲み、たまたま居合わせた「灘の大きな酒造会社の技師」と円タクに乗って東京駅近くに移り、「どこかの地下室」で「極上のものばかり」数種類の日本酒を朝まで飲む。そして灘に帰る技師と一緒に、半日かけて技師の会社に行くことに決め、酒造工場見学を終えて、神戸の「しる一」での盛大な宴会で接待される。まわりにいるのは、毎日一升、二升と飲んでいる「灘切っての猛者連」で、ふと気がつくと人の姿が昼間工場で見た酒のタンクと化している。
「事実、回りで酒を飲んでいるのはその四十石入りや七十石入りのタンクなのだった。(中略)こうなると、酒はもう飲むというものではなくて、酒の海の中を泳ぎ回っている感じである。(中略)海はどこまでも拡がっていて、減った分だけ又自然に湧いて来るから、飲み乾したくて飲む喜びは無限に続き、タンクが幾つあっても足りることではない。四十石さんだって、酒に溺れてぶかぶか浮くことがある訳である」(原文旧仮名)
ラブレーにも比すべき吉田健一的世界の「酒」を、「音」に置き換えたのが清水の『チェロ組曲』と言えるのではないか。「聴き手は音の海に放り込まれ、聴くというよりもその中を泳ぎ回っている感じになる。音の海はどこまでも拡がっていて、減った分だけ自然に湧いて来るから、聴き乾したくて聴く喜びは無限に続き、楽曲が何曲あっても足りることでヘない……」。『チェロ・スウィーツ』を聴きながら「酒宴」のページを繰っていると、このように書き換えてしまいたいという衝動に駆られる。酒が飲み手を呑み込むように、清水の音と音空間は聴き手を呑み込み、その想像力を極限にまで広げるのである。
実際の清水は、赤ワインもマティーニも日本酒もたしなむ酒豪である。チャーチルと吉田健一のどちらのタイプか、などという野暮な愚問に答えるまでもない。「酒の海の中を泳ぎ回」るタイプに決まっている。『チェロ・スウィーツ』を聴きながら、清水と一緒に「音に溺れてぶかぶか浮」いてほしい。
(REALTOKYO、ART iT編集長/小崎哲哉)
詳細については『Cello Suite 1. 2. 3』、『Cello Suite 4. 5. 6』をご覧ください。
For detailed information see Cello Suite 1. 2. 3, Cello Suite 4. 5. 6