● マライアを結成した切っ掛けは何でしたか? “マライア” の前に他のバンド名も持っていましたか?
マライアを結成したのは、ヴォーカルのジミー村川君と出会ったのが契機です。マライアより前に別のバンド名はありません。私にとってバンドという形はこれが初めてです。
● グループのコンセプトは何だったのですか?
結成時のマライアは、プログレッシブ・ロック色が強かったですね。コンセプトはもちろん反体制です。
● あなたはジャズシーンの一員でしたね。どのような影響を受けましたか?
マライアを結成する以前、日本のジャズシーンで様々なアーティストと共演させていただきました。それはそれは貴重な経験で、多くのことを学びました。1970年代の日本には多くのジャズクラブがありました。日本津々浦々、各駅に一つ二つのジャズクラブが存在しました。
私たちは小編成のセッショングループを組んで、各地のジャズクラブを転々と回って行くのですね。その時代、私はほぼ毎日、時には1日に3回のライブ演奏を行なっていました。ジャズ、ジャズ、ジャズの毎日。ですので、音楽的にも精神的にも大きな影響を受けていると思います。特に習得して大変良かったなと思うのは、瞬間的な身のかわし方です。共演者は突然尖ったアプローチで迫ってきますから。
● あなたの音を説明するのは不可能です。様々なスタイルを融合させた、本当にユニークなバンドでした。自身のスタイルをどのように表現しますか?
1980年初頭は私自身の転換期だったと思います。『うたかたの日々』そして『案山子』はちょうどその時期に録音したアルバムです。特にこのアルバム制作中、それ以前バラバラだった心模様の断片が一気に1束に纏まったとでも言いましょうか。果たして何が変わったかはミステリーです。
しかし、私自身から湧いてくる何かを戸惑いなく音で紡ぐことに没頭できるようになりました。ですので、この両アルバムは私のスタイルの原点だと言えます。以後、様々なプロジェクトを立ち上げましたが、現在まで基本的なアプローチは変わっておりません。
● あなたの他の主なプロジェクトは何ですか? 自身の中で、プロジェクトとアルバムはどのように違うのでしょうか。
私は『うたかたの日々』とほぼ同時期に「清水靖晃&サキソフォネッツ」というプロジェクトで数枚のアルバムをリリースしました。『ロトム・ア・ペカン(北京の秋)』(1983)、『スターダスト』(1985)がサキソフォネッツ初期のアルバムです。このプロジェクトはソロアルバムやマライアとは異なる視点で取り組みました。このプロジェクトの基本は、より静的であることに趣を置くことでした。
特に『スターダスト』ではこの試みが如実に反映されていると思います。超スローテンポで演奏した「スターダスト」、「ユーモレスク」は時間が止まったかのような錯覚に陥ります。
また、このアルバムは敢えて45回転のアナログ盤にしたのですが、それは33回転で聴くと更に静的な世界を味わえるというオプションです。私は常々チャンスを狙い「サキソフォネッツ」プロジェクト名義でアルバムをリリースしました。
1990年代後半に<バッハ/スペース/テナーサクソフォン>の三角関係に着目し、J.S. バッハの「無伴奏チェロ組曲 第1〜6番」を制作し、これをサキソフォネッツ名義で発表しました。録音は6曲からなる組曲それぞれ異なる場所で行いました。例えば地下採石場跡、鉱山の坑道、倉庫といった残響が豊かで複雑、また特徴のある響きをもつ場所を選びました。筒の楽器、テナーサクソフォンがこれらの巨大な空間と共鳴する時、私の身体は空間に溶け出し、音と一体化して浮遊するような感覚になる。私はそれに大きな喜びを感じました。
さて、これらのアルバムは私のサクソフォンソロおよび多重録音でしたが、2006年に4人の先鋭的なサクソフォン奏者をメンバーに迎え、「サキソフォネッツ」プロジェクトをバンドとして立ち上げて『ペンタトニカ』(2007)を発表しました。このアルバムも空間とサクソフォンを共鳴させることを主としましたが、私はこの新しいバンドの為に五音音階を使用した楽曲を書き下ろしました。多分、私の深い何処かで同じように五音音階で構成された『うたかたの日々』、『案山子』と一体化したい欲望があったのではないかと思います。私はこのメンバーと共に日本はもとより、モスクワ、キューバ、香港など海外公演を行いました。「サキソフォネッツ」はこれからも活動を続けていこうと思っております。
2018年、私はヨーロッパツアーを行いましたが、これを機にサクソフォンとエレクトロニクスによる音響を駆使したプロジェクトを始動しました。チームにはサウンド・インスタレーション等を手がける國本 怜君を招き、彼によるMaxMspのプログラミングと私のReaktorエフェクトの組み合わせで空間におけるサクソフォンの音像変化と特殊な音響効果を狙ったパフォーマンスを計画しました。プログラムは『うたかたの日々』、『案山子』から数曲、そして、アルバム『ペンタトニカ』から「ほほ・じゅうがつ」や新曲を用意しました。おおまかな進行は決めておきましたが、それぞれの曲は構築されたものではなく、私の即興演奏で織り成していくという形をとりました。ですので、それぞれの会場でのパフォーマンスは違った趣になります。会場の響きや、その日の状況、また気分の違いを敢えて引き出すよう心がけました。好評を得たこのプロジェクトも今後続けていこうと考えております。
もう一つ私が力を注いできたのは映像作品への作曲です。私は幼少の頃から映画が大好きでした。封切り映画があれば学校を休んで観に行く程でした。私にとって映画は夢と同じです。カメラレンズを通しての非現実が私の身体で現実になるような…。陶酔した時間は映画が終わるまで続きます。
1985年パリ在住の頃、ジュリエット・ベルト監督映画『アーブル』(1986)の音楽を依頼される幸運が訪れました。私はパリに持ち込んだ初期のコンピューターでコツコツ時間をかけて作曲したのですが、完成した音源を映像に充てるダビング作業の時が未だに忘れられません。銀幕に沁みる音と映像の化学変化。私は以後積極的に映像プロジェクトに関わるようになりました。
というわけで、これまで挙げました幾つかのプロジェクトは同時進行していますが、私の中では一つ一つ深い関連性があり、それぞれの境はグラデーションになっている、と言うか、むしろ同化していると言えると思います。
●『うたかたの日』をレコーディングした時の思い出の中で、特に印象に残っていることは何ですか?
あぁ~~思い出、、、。『うたかたの日々』。この時の思い出は先週起きた出来事のように、未だ感触が残っています。本当に沢山のシーンが泡のよう湧いてきます。何を何してあーしてこーして、、パズルのような録音作業でした。マライアのメンバーと一緒に過ごしたかけがえのない思い出も数ありますが、特に印象深い思い出は、セタとジュリーを音楽スタジオに招いてのコラボレーションです。セタがアルメニア語で詩を書きそしてジュリーが歌いました。暗闇のヴォーカルブースで。「視線」、「不自由な鼠」、「心臓の扉」、「少年」です。彼女たちは時に少女のようにはしゃぎ、また時に哲学者のように議論し沈黙する。彼女たちの感性を得た事によって『うたかたの日々』の世界観は多角的に広がったのではないかと思います。
● アルバムのレコーディングはどこで行いましたか? どのような機材を使用しましたか? スタジオ録音は何時間くらいかけましたか?
録音は日本コロムビアのスタジオで行いました。『うたかたの日々』の制作に費やした時間は正確に覚えておりませんが、ともかく膨大な時間をかけたと思います。1日の大半をスタジオで過ごしましたし、何日も泊りがけで作業したこともあります。ほぼスタジオに住んでいたと言っても過言ではありません。音楽制作は事前の準備作業はほぼなしで、音楽スタジオに入って、一から作るというのがその時期の私のスタイルでした。スタジオには、思いつくありとあらゆる音源、または楽器を集め、その日の気分で音を出す。そして気に入った音色、質感が見つかればそれを無造作に録音し配置するというやり方でした。そしてその「音」達を録音テープ編集でループにしたり、音響機器を利用して独特な音質に加工する。また私はこの時代、シンセサイザーをよく使っていました。1970〜80年代に登場したシンセサイザーは画期的でした。『うたかたの日々』ではProphet 5を主に使用しています。また初期のサンプラー、Emulator も使用していたと思います。
私は音楽に没頭すると同時に、立ち現れる「音」自体に興味を持っていました。静寂の中から立ち現れる「音」達。それぞれ異なる倍音が絡み合う。私はコンソール・ルームのスピーカーから現れる音像を「箱庭 」とイメージしました。そして箱庭の空間で繰り広げられる「音」のダンスに魅力を感じていました。
● 今回のリイシューに興奮していますか?
今度のリイシューを大変嬉しく思っております。私はこのレコードジャケットカバーを含めて『うたかたの日々』の表現だと思っておりますので、当時のままのレコードジャケットでの発売は大変満足しております。またリマスターされたサウンドも良好ですね。
● アルバムが発売された当時、日本ではあまり注目されていませんでしたが、それから何十年経った今、多くの人がこのアルバムの素晴らしさと独自性を発見しました。それはなぜか、想像できますか?
私はこのアルバム完成後、1985年にパリに居を移しました。その時、自ら『うたかたの日々』、『案山子』のプレゼンテーションを行ったのですが、あまり良い反応は得られませんでした。しかし、少数のプレスであれ現在まで再発売され続けてきました。近年多くのレコード・ディガーによってこれらのアルバムをあらゆる地域で紹介されていることを知り、嬉しいため息をつきました。このアルバムは私自身ですので愛する質感は肌で感じるのですが、多くの人々がこのアルバムの質感を愛してくれていることに大きな喜びを感じております。
● 現在、あなたの人生を占めているものは何ですか
音、音、音…。日々、音に明け暮れております。
● インタビューに時間を割いて頂きありがとうございました。最後にメッセージを。
私は田畑に囲まれた生家で幼少期を過ごしました。そこには春夏秋冬、様々な音がうねり渦巻いていました。その中で特に惹かれたのが秋の虫の音です。この季節になりますと、何種類もの虫達が一斉に鳴き出します。虫達の発音は多様性に富んでおり、またそれぞれの虫から発せられるパルスは絡み合い、複雑なポリリズムを構成します。私は、虫達同士での音声による交信が行われているのではないかと想像しました。そしてさらには宇宙に向けてパルス信号を発信しているのではないかと想像は膨らんだのでした。私はこの体験が現在まで私の音楽制作への意欲を掻き立てる原動力になっていると思います。日々の生活を送る環境と私は一体化しています。そしてある時どうしても見過ごせない、いや、放っておけない愛しい小さな音が身体に響くのです。この音が聴こえる限り私はこの生活を続けるつもりです。
2020年8月14日
音楽ウェブマガジン、It’s Psychedelic Baby Magazine に英訳掲載